石井裕倫の街談巷説

                    社会不適合者である。 自堕落・怠惰・杜撰・胡散臭い 音楽やアートや 日日の生活を書き連ねるだけ。。。

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今年の終焉はりの言葉

私は、申年です。

年男でした。

今年は、災厄の年でした。

一月から、もう其の予兆は在りました。
四月には、拾三年勤めてた前職を

色色ありまして、退職しました。
其の後は、36歳(無職)に爲り、

フリーターとして職を轉轉としておりました。
其の間、私は懺悔をしなければいけない事をしました。

(此処では伏せます。)
漸く、拾月に爲り今の職に就きました。
忙殺の日々が続き、朽ち果ててもおかしくありませんでした。
然して、年末最後の最後で巨きな爆弾が私に投下されました。
とても殘念でした。

最後まで、災厄でした。

と、此処でお知らせです。
來年、1月13日

吉祥寺MANDA-LA2にて

仲良くさせて頂いてる

「マニアック京都」さんのサポートでギターを彈くことに爲りました。

また、此の日はカゲルの企画でして、

其のカゲルでも一曲ゲスト参加させて頂きます。
もしお時間が合へばお越しください。
其れをもちまして、

私、石井裕倫の音樂活動は無期限の活動休止に入ります。
次にいつやりたいかとか、全く決めてません。
然して、私がベースで参加してる

「ぽち」も、脱退します。
「コンテンポラリヰ圖」もやりません。
勿論、ソロもやりません。
色色惱みましたが、仕事との兼ね合いや、

私のモチベーションが保たれない事など

理由は澤山御座居ますが、

今のところ表立つた予定はありません。
澤山の方々と出逢へて、

私は倖せでした。
けど、しばしのお別れです。

今年は別れの年でした。

唯一、嬉しかつたのは

THE YELLOW MONKEYが再集結したことです。
途轍もなく嬉しかつた。
ライブは、三回も行けました。

(チケット当選は總て妹でした。感謝。)
私は、一度消へなければいけないと。

考へております。
其の方が好いと思ひます。

周りに迷惑もかけないので。。

死にはしませんが。
取敢えず、普通に仕事して飯食つて生きていきます。

今まで、私を応援して頂いた方、

私を支へて下さつた方、

仲良くしてくれた方。
皆様、本当にありがとうございました。
今年一年で、私と云ふ人間がどれだけダメなのかを知りました。
今後は、日々精進をし、

少しずつではありますが、

皆様に恩返し出來るやう

生きていきます。

それでは、皆様にとつて

2017年が幸多き年に爲りますやうに。
2016年12月30日
石井裕倫
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約束を捨てた人たちが住んでる町

「難民」
檳榔を賣る、肌着姿の女たちが
車道まで出て金を乞ふてる光景は
まるで此処が底辺の樂園のやうな
雲の一番下のやうな…
光化学スモツグが辺りを彷徨い
腐つた硝子片が辺りに散らばり
電柱のスピーカーからはジョン・ケージの4:33が流れ
蝙蝠の翅音で占いをする老人が
高架下の陰氣な角で陣取り
爛れた犬の唾液のどぶ臭い匂いは
何の願いも込めずにアンクレツトを脛に巻いた
青い目の少女に纏わり附く
彼女は難民である
弟たちと乘つてきた舟が轉覆し
彼女だけが生き残つた
なけなしの金を占いに使い
此の先の生きる糧を其処に見出した

「檳榔子」
檳榔子(びんろうじ)を細く切つたもの、
あるいはすり潰したものを、
キンマの葉にくるみ、
少量の石灰と一緒に噛む
しばらく噛んでゐると、
アルカロイドを含む種子の成分と
石灰、唾液の混ざつた鮮やかな赫や
黄色い汁が口の中に溜まる
この赫い唾液は飲み込むと胃を痛める原因になるので
吐き出すのが一般的である
其の爲、道路上には赫い吐き出した跡がみられる
しばらくすると輕い興奮・酩酊感が得られるが、
煙草と同じやうに、慣れてしまふと感覚は鈍る
そして最後は、ガムのやうに
噛み殘つた繊維質を吐き出す
赫い点々が辺りに散らばるスラム
闇市の泥臭い匂いと
犬の屍骸の匂いと
下水道のヌメりとした匂いと
何の匂いか判らない匂いと…
混血が沢山住んでるスラムに充満する

「ハロー、グツドナイ。」
ハロー、グツドナイ。
今日も軒燈を消さうか
ハロー、グツドナイ。
君の聲は遙か彼方
間違つた答えに溺れ
羸れ、震え、離れ、閉じて
重ね、變へて、傳え、流れ、
怯え、願え、逃れ、染まれ、、、
狂つた町から逃げてきたの!
あなたを追つて逃げてきたの!
でも、何故あなたはそんな
青い月が茶色いクレヨンに沈んだみたいな顔をしてゐるの?
珈琲も醒めてしまつたし
何処行くアテもないから
其処の角の店で買つたパンを食べて
昔、ピアノを彈いてた事を思ひ出すわ
あなたは、明日にでも
病院に行つたほうが好いわ
其処で、笑顔に爲れる藥を塗つてもらうといいわ
其の裡、またあなたのギタアが聽きたいから
早く歸つて來てよね
わたし、此の色褪せた室で
待つてゐますから
待つてゐますから…
ハロー、グツドナイ。

「車輪」
マグロ拾いを生業とする少年
彼は、年間無料切符を携えて
今日も電車に乘り込む
彼の目に写る、ドス黑い赫色は
彼の腦神経を麻痺させてゐた
臓物は、其の辺の砂利に等しく
眼球は、其の辺の硝子片に等しく
ネクタイやスーツは、
其の辺のボロ雑巾に等しい
始めた頃は、怖くて何も出來なかつたが
一箇月もすると、手袋を嵌めて
散り散りに爲つた四肢を掴めるやうに爲つた
彼は、完全に亡霊に取り憑かれたのだ
彼の室の隅には塩が盛られ
お札が置かれ
線香が焚かれてゐる
室の中は整理されてゐて、
無駄な物が一切ない
タンスには、黑を基調とした
暗い色の服しかなく
(此れと言つて、明るい色の服を着る必要もないのだ)
世界の情報はラヂヲで充分だし
幼少期に母が死んでからは、
孤獨なんてもんは忘れてしまつたし
養護施設で一緒だつた
二つ歳上の知り合いから
今の仕事を紹介してもらい
毎日を淡々と過ごしてゐる
(同時期に、×××も教へてくれた。)
人から見れば「特殊」なのかもしれないが
彼にとつてみたら、其れが當たり前であり、
其れが世界の總てなのである
毎日、何処かで起きる殘念な終焉り
彼は今日も、車輪の傍でマグロを拾つてゐる

約束を捨てた人たちが住んでる町
其処に在るのは愛でも理由でもなく
ただ刻々と過ぎ行く日々の中で
命を減らし酸素を吐き出し
いつか空に架かるであらう虹を
其の日が來る迄待ち續けるだけの
退屈なリアルと其の線上に在る
蟻が落としたほんの少しの砂糖を
拾う悦びだけが赦された町

私たちも、いつか住むであらう町。。。

本日は命日

母方のおぢいさんの命日です。

で、過去にmixiに書いた日記を、
ブログに再掲したいと思ひます。


昨年(2007年)の六月に他界した、母方の祖父の『合同慰霊祭』に参列した。

祖父は生前から「献体」を望んでゐたため、病院で亡くなつてからすぐに
解剖実習の行われる大学病院へと向かつた。

其れから約一年と三ヶ月、実習も終わり、遺骨となつてようやく遺族の元へ戻つてくるのだ。
然して、同じやうに「献体」を望んだ故人(望んだご家族)の居るご遺族達と供に
今回の『合同慰霊祭』に参列したわけである。

然し乍、参列するにあたつて俺は、とんでもなく場違いな気持を連れて行つてしまつたのだ。


「おぢいちやんが帰つて来る!」
程度の気持で参列したのだけれど、、、
勿論、所謂『喪服』に着替え、厳かな雰囲気で執り行われる慰霊祭に際しては
厳かな気持で其れに臨んだのだが、

何といふか、そこまで気負ひせず・・・
どちらかといふと和やかな面持ちで開式を待つていたのだ。
其処まで「献体」や『合同慰霊祭』の知識を持ち合わせもせず・・

開式から、黙祷・・学長の言葉・・感謝状贈呈・・献花・・
と、滞りなく慰霊祭は進んでいつた。

然して、最後に執行役の挨拶やら、臨床医の挨拶やらがあつた。
中に、○○病院の看護部長の挨拶が始まつた。
其処で、先にも述べた「俺の場違いな気持」を痛感させられるのである。


其の部長の挨拶は、以前担当してゐたあるご夫婦の出産の話だつた。

出産後間もなく、生まれてきた娘さんが亡くなられて
看護部の皆さんも、然して勿論ご夫婦もシヨツクを受けておられた。

だが、其のご夫婦は、

『娘を献体に出す』コトを望んだのだ。

今後、このやうな悲しい思ひをする方が一人でもなくなるよう、
医学の発展に貢献したいといふモノだつた。

其れを、時折涙で声を詰まらせながら、看護部長は切々と言葉にしてゐつた。


其処で、俺の「献体」に関する知識の薄弱さ、
『合同慰霊祭』に臨む姿勢の軽薄さを、悉く痛感させられたのだ。

つまりは、この慰霊祭に参列してゐるご遺族の方々は、
皆、和やかな気持ではないといふ事。
皆が天寿を全うした故人だけではないといふ事。
若くして亡くなられた方、事件・事故に巻き込まれ亡くなられた方など
様々な経緯や思ひがあつての「献体」、然して『合同慰霊祭』なのだといふ事。


自分が何ともぞんざいな態度で参列したことか・・・
自分の物差でしか物事の定義を決められない不甲斐無さ・・・


この歳になつて(なつたからこそ)、もつと色々な事を学んで、
考え、理解し、行動しないといけない
と、痛感させられた。


昨日の気持である。

マニアック京都史学史

遠い昔、
ニホンという國で戦争がありました。
10年以上も続きました。
ニホンは、物資不足を植民地支配で補い
戦力を、徴兵制度で補いました。
ニホンは、アメリカとフランスとイギリスという國と戦っていました。
圧倒的な戦力を武器にした連合國との戦いに、
精神も物資もギリギリになっていました。
空から多数の焼夷弾が雨のように降ってきて、
一般市民も多数犠牲になりました。
「果たして?この戦争は必要なのか?」
と、疑問に感じる人たちもいましたが、
軍の命令に背くわけにはいきません。
そのため、力のない女の人、子供、老人は次々に死んでいきました。
そして、大人ではなく、大学生が徴兵される
学徒動員も始まり、
戦争は悪化の一途をたどっていきました。
そして、その日は来ました。
場所はヒロシマというところ。
8月の暑い日、
戦時中であるが、街の人たちは
普段通りの生活をしていました。
そんな時、
急に空が光りました。
その瞬間、とんでもない爆発が起こり
街にいた人は爆風や熱風で、
一瞬にして死にました。
原爆が落とされたのです。
何十万人も死にました。
そんな中、ある一家は被災地より少し遠いところに住んでましたが、
もう街には住めなくなったので、引越しをすることになりました。
場所は比較的被災の少なかった京都。
その年、戦争が終わりました。

その家族の長女は、
すくすく成長し、中学生の時に
叔父からもらったアコースティックギターにハマり
高校になると、フォークソング部に入り
自作の曲などを作るようになる。
その後、バンドを作り、オリジナル楽曲の制作に取り組んでゆくようになりました。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

マニアック京都は
下京区周辺で路上ライブを行っていた。

1965年8月に自主制作シングル「トマト畑で」でデビュー
その後、12月にも自主制作シングル「終わらない一日」を発売。
翌年は路上ライブを年に200本行うなど、積極的な活動を行っていた。
しかし、その後1968年以降は、
全共闘運動など、ニホン各地でデモや学生運動が活発化し、
メンバーも活動家になるものや思想家になるものが出てきたため、活動休止を余儀なくされた。

学生運動が沈静化し、世間では四畳半フォークが流行りだした頃、
マニアック京都はメンバーチェンジをし、再始動する。
1973年当時、出来たばかりの「京都 拾得」に月一で出演し始める。
その年の9月にURCに加入し、
3枚目のシングル「アフリカ象」をリリース。
12月には早くも4枚目のシングル「神様の夏休み」をリリース。
ライブ活動も頻繁に行い、動員数も増えていった。
この頃が絶頂期といえよう。

その後は、メンバーチェンジを繰り返しながら、マイペースな活動に移る。

ベルウッドレコードからの唯一のLPである5枚目のシングル「水たまり」をリリース。
その後はフリーになり、
自主レーベル「マニアックレコード」を設立。

1979年3月には、レーベル初となるシングル
「ピアニコ」をリリース。
わずか500枚という少ロットの制作であったが、発売3日で完売し、現在は廃盤となっている。
※この曲は、元々戦前からの童謡だったものを、マニアック京都なりにアレンジし、戦争色を消しているとも言われている。
また、差別的な内容の歌詞だったため、
それをメンバーが嫌がり
その用語の部分を「ピアニコ」という造語に変えた。という説もある。

彼女らはニューフォークなどと呼ばれていたが、メンバーたちはそれに共感は出来なかった。
「自分たちは、唯一有無の存在」と自負しており、ジャンルレスをアピールしていた。

6月にシングル「名なしの子守歌」
7月にシングル「飛行船」
8月にシングル「ケメケソ」
を連続リリース。
ファンの間では、この連続リリースを
「三ヶ月大戦」と呼ばれている。
理由としては、三曲とも戦争を彷彿とさせる作品が続いたからだ。
名なしの子守歌は、戦争当時の人民の気持ちを歌っているのではないか?
飛行船は、ヒロシマ原爆の事を歌っているのではないか?
ケメケソは、戦後に流行った歌をパロディーにして歌っているのではないか?
としている。
歌っているのではないか?と記したのは、
彼女ら(マニアック京都)の歌の内容については、謎が多く、
また本人たちも「特に意味はない」と語っているからである。
この、所謂「三ヶ月大戦」は、その難解な歌詞と戦争を彷彿とさせる内容から都市伝説化し、
「反戦のマニ京」と呼ばれた時期もあったという。
人々の喪失感を歌ったこの三曲だけは、
他の作品と比べると独特な仕上がりになっている。

そして、「ケメケソ」を以って、マニアック京都は無期限の活動休止に入る。
理由は「修行がしたい」とのことだった。
折しも、その当時のニホンでは、フォークやGSといった類の音楽が衰退していく中、
アイドルや歌謡曲、パンクやニューウェーブなどが出てきた頃である。

そして、1989年
当時はバンドブーム真っ只中。
そんな中、突如として再びマニアック京都が現れる。
特に大々的な告知もなく、
吉祥寺MANDA-LA2にてライブを行い
MCで新作を出すことを発表。

その年の9月にいぬん堂から
シングル「名前をつけてくれc/w街燈」をリリース。
しかし、リリースして間もなく
マニアック京都は、再び活動を休止。

のちに、この当時のことをメンバーは
「特に意味はない。なんとなくやろうかって。」と話したことが、ある音楽雑誌のすみに掲載していた。

翌年1990年3月に、過去のLPシングルと未発表音源をリマスターした初アルバム
「マニアック京都旅行」をリリース。
(未発表ボーナストラックは、エスカレーター、かえるのうた、ラスベガス、ピアニコ(初期歌詞違いバージョン)
※これも、すでに廃盤

その後は、メンバーチェンジをしながら
不定期に活動や休止を繰り返し、今日に至る。

私としては、今年あたりに新作のリリースをしていただきたいと思ってるが、
マニアック京都のことだから、いつになることやら。
首を長くして待つことにしよう。


1994年 石井裕倫 記

アサマデカラオケと、震災。

いま、熊本では大変なことに爲つていますね。
2016.4.14に起きた震度7の地震。
夜中にテレビ見てたら、驚いて聲を上げてしまいました。
然も、2回も震度7の地震です。

内陸なので、津波の心配はありませんでしたが、
土砂崩れ、家屋の倒壊、道路の亀裂、
内陸での地震の怖さを、感じました。
あの熊本城でさえ、ズタボロです。

そもそも、この「津波の心配はありません。」と
強調されるやうに爲つたのは
あの日、
2011.3.11の東日本大震災以降だと思ひます。

私は、あの時
友達の舞台を観に行くところでした。
家で準備をしてゐると、
大きく搖れました。
かなり搖れました。

「これ、本気でヤバイかも!?」と思ひ、
取り敢えず家の中で倒れてゐるものはないか?
などのチェックをしてました。
(其の時、両親ともに仕事で不在)
どこもなんともなく、飼い猫がまつたりとアクビをしてました。

まあ、其の時の私のことは置いておきませう。

其れからが大変でした。

ライフラインの確保が出來ない。
節電・節水で生活を制限され
買い占めなどによる無能なクズや、
毎日テレビから流れてくる津波の映像。
被災者の悲しい聲、悲しい顔。
さらに、関東地方でも起こる余震
仕事のキャンセル
などなど、、、

わたしは、所謂「震災鬱」に爲つた。

ほんの一週間が、一箇月のやうに長かつた。

わたしの、いままでの現実や生活が
總て失はれた。
いままで、非現実だと思つてた事が、
現実に取つて代わつてしまつたのだ。

食事も満足に出來ない。
仕事も出來ない。
お金も入らない。
それよりなにより
音樂が手に付かなくなつてしまつたのだ。
聽くのもイヤ、弾くのもイヤ。
日々、毎日毎日をただ生きるために生活していく。

さう。それこそが、
いままで現実だつたものが
非現実に取つて代わつた瞬間だ。

大好きな音樂に觸れる事も出來ない。
震災鬱の中で、家に閉じこもる。
外へ出ても腹が減る。
腹が減つても、食う飯がない。
音が何もないと、キチガイに爲りさうだから、
テレビを付ける。(ウチにラヂヲはない。)
震災の映像、津波の映像。
地震速報、携帯の地震通知。
唯一地震と關係ないのは、
ACのCMくらいだつた。

あのCM(ポポポポーン)は、
それこそ、キチガイに爲るくらい流れてた。

今も、
熊本地震前と比べたら比に爲らないくらい
ACのCMが流れてる。
3.11よりもバリエーションは増えてるが。


さて、話は少し飛ぶ。

其の半年後
2011.9.11に、仲間たちとアニソンのライブをやる事に爲つた。
毎回、おっさんホイホイ的な、懐古厨的な内容だが、
わたしはそれがとても愛おしかつた。

「今回はどんな趣向でやらう?」と、会議を重ねた。

アサマデカラオケ第4期。

テーマが決まつた。

「引きこもりの女の子が一日中テレビを見てる」

というもので、
これまでのアニソン主体のものとは大きく違つた。

会議の初めの頃、皆で試行錯誤してた時に

「朝から夜までの番組表見たいな感じでいきませんか?」

提案したのはわたしだつた。

皆、最初は悩んでゐたが、
そこから皆がアイデアを出していつて、
ようやく大枠が出來た。

夏頃から練習を何度かした。

さて、本番当日。

我々のやつた演目は

・ひらけポンキッキ
・たんけんぼくのまち
・みんなのうた
・CM
・笑っていいとも
・シティーハンター
・ドリフ大爆笑
・夢で逢えたら

以上である。

アニソンは、シティーハンターだけである。
あとは、メドレーや、パロディーだ。

中でも注目して頂きたいのが

CM

という演目だ。

これは、みんなのうた〜笑っていいともの繋ぎに
CMのパロディーを入れたのである。

この、パロッたCMこそ
先にも述べた
ACのCMなのだ。

我々は、半年前に大量に放映されたCMを
パロディーにして、お客さんに振る舞つた。

会場は大爆笑。

私自身、そのCMの演目が
もしかしたら一番樂しかつたかもしれない。

さて、東日本大震災から丁度半年後に行はれたライブであつたが、
このCMのパロディーは不謹慎であつたのか?




わたしは
違うと思ふ。

と、同時に
今回のテーマが意図するものと
わたしの震災鬱の中で感じた閉塞感からの解放
というものが、完全にマッチしてしまつたのだ。

一人ぼっち。
テレビを見ることしかできない。
そこで、理想に描いた女の子は
樂しい番組をずつと見て、
一緒に歌つて踊つて笑つて、
最後は夢で逢えたらいいな。
と願つて終はる。

わたしがテーマとして何気なく出した案は、
非現実に立たされてゐるわたしが
現実を再び取り戻す!
音樂を取り戻す!
喜び、笑い、馬鹿騒ぎを取り戻す!

もしかしたら、
引きこもりの女の子は
わたしの理想なのではないか?

さう。つまりは、
理想であつた。

斷はつておくが、
先のACのCMのパロディーも、
もちろん言わずもがなだが、
バカにしてパロッた訳ではない。
あの当時、沢山のパロディー作品が作られてた
ニコニコ動画やらに、MAD動画が沢山作られてた。

總てが總てではないが、
その内容はエグかつた。
樂しいものもあつたし、
わたしも全部見た訳ではないから推測でしかないのだが、、

とてつもなく襲いかかるあのポポポポーンに
果敢に挑戦してきた者たちは沢山の居る。

我々、アサマデカラオケはエンターテイナーである。
決して、人を傷つけたりはしない。

3.11の震災と、
半年後の演目が
わたしの無意識が産んでしまつたものは

アサマデカラオケにとつては「異種」に
爲つてしまつたのだ。

然し、あの日はとても樂しかつた。

みんなのお陰で、ようやく音樂を取り戻せたやうな氣がした。


アサマデカラオケは、5期までライブをし、
その後伝説と爲つた。(とは大袈裟だが、、、)

以下にその東日本大震災から半年後の我々の演目を載せる。

これが、不謹慎であるのか?
それとも、未来へ託した希望なのか?
はたまた、全く意味のない物なのか?

ご自身の目でお確かめください。

https://m.youtube.com/watch?v=S155nOemqTU



最後に、
今回の熊本地震で被災された皆様に
お見舞いを申し上げます。


2014.4.26
石井裕倫

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