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石井裕倫の街談巷説

                    社会不適合者である。 自堕落・怠惰・杜撰・胡散臭い 音楽やアートや 日日の生活を書き連ねるだけ。。。

あの日の傷と

昔、近所の部落みたいなところ
トタン屋根の住宅が軒を連ねてた場所に
脇本っていうキチガイの女が住んでいたんだけど
そいつの家は公園の隣にあって
僕らはその公園でしょっちゅう遊んでた
鬼ごっこやボール遊び、
缶蹴りとかかくれんぼとか
公園だから、夕方まで騒いで遊んでた
ボール遊びなんかしてたら
たまに、ボールが逸れて
その脇本の家の扉にぶつかったりした
脇本の家は、ちょうど公園の中出口の前にあって
柵とかがなかったから、よくボールが飛んでった
そうすると、中から脇本が出てきて
「ふざけんなよ!この野郎!」
と言って怒鳴ってきた
最初は怖かったけど
その事を大人に話すと
「あの人は頭がおかしいから、近づくんじゃないよ!」
と注意された
子供心に
「頭がおかしい=変な人=普通じゃない」
普通ではないという事が
自分よりも劣ってるんだと勘違いして
(きっと、大人達が「貴方みたいな良い子ではない」とか吹き込んでたんだろう)
怖さはあったが、好奇心もそれに比例していた
ボールが扉に当たると、必ず怒鳴って出てくる
次の日も、ボールが当たると出てくる
この、なんとも言えない機械的な出来事は
子供達を夢中にした


ー叩くと音が出るー
ー釦を押すと声が鳴るー
のような


如何にも子供には明快で、分かりやすくて
同じ事の繰り返しが起こる
買い与えられたおもちゃのように
それは、子供達の遊び道具の一つになってしまった


怖いけど、それを超えた面白さとも言うべきか
(差別意識ではなく、物体としての面白さ)
があり、そこで子供達は初めて
人を茶化す
事を覚えたのだ


茶化せば茶化すほど
相手は怒り
こっちに向かってくる
僕らは必死になって逃げた
走りまくった
仲間内でも鈍臭い奴がいて
逃げ足が遅く、脇本に捕まる奴もいた
首根っこを掴まれ、引きずり回される
ケツを叩かれて、時にはビンタもされた


怖かった


親以外に(もしくは親にさえもされてない)
暴力というものを間近で見てしまったからだ
「これは良くない事だ。悪い事だ。」
と子供達は思い、
困ったときのお巡りさん
という大人からの手を抜いた助言に従い
近くの交番に走って向かい


「脇本が○○君を叩いてる!助けて!」
とお巡りさんに助けを乞い
今度はお巡りさんが脇本を捕まえるのだ
脇本は訳の分からない喚き声をあげながら
僕らを睨んでいる
怒鳴っている
抵抗している


子供達は解放されて、安堵する
そして、救われたと思う
全くもって、勧善懲悪の世界だ


お巡りさん=正義
脇本=悪者


僕らは、一般市民だった


あわよくば、正義だと勘違いしていたかもしれない


脇本は、要注意人物として近所で話題になる
大人達は、子供達に注意喚起をする


「近づいちゃダメ」


それでも、僕らは近づこうとする
子供は馬鹿だし頭が悪い
学習するにはよかったのかもしれないが


今度は悪ガキが
敢えて脇本の家の扉に
思いっきりボールをぶつける事を始めた
こうなると、もうただの悪戯だ
脇本は喚きながら家から出てくる


「いい加減にしろ!テレビが聞こえないじゃないか!」


脇本は、悪ガキどもの格好の餌食となった
茶化して、子供は早足で逃げる
しばらくしたら
またボールをぶつける


「やめてよ!赤ちゃんが眠れないじゃないの!」


脇本はまた喚きながら出てくる


赤ちゃんなどいない
脇本には親も子供も配偶者もいなかった
頭がおかしいんだ
嘘をついてるんだ
変な事を言ってるんだ
子供たちは、そう噂した


そのうち、脇本が警察を呼ぶ事態になった
脇本が警察を呼んで
「危害を受けてる」と話し
今度は、僕らが怒られるようになった
家を聞かれたり
学校名を聞かれたり
そのうち親にバレる


「近づくなと言ったでしょ!」


大人達の叱り方はみな同じだった
近づいたから駄目なんだ
あの頭のおかしい人に近づいたから駄目なんだ
ボールをぶつけた事を言われる前に
近づいた事を怒られた
つまり、脇本はどこまでも悪者であり
ちょっかいを出したのが良くなかったと
お化けや妖怪や怪物のように
人間ではない怖いもの
という認識を子供達に植え付けた
次第に、子供達は賢くなってくる
脇本にちょっかいを出さなくなってきた
しかし、キチガイだから
公園で普通に遊んでるだけでも
「うるさい!」と怒鳴ってくる
子供達は、もう飽きてきた
飽きたので、自分達から身を引いた


その公園で遊ばなくなった


僕らは、脇本の異常さに恐怖したわけではなく
「面白くなくなった」から、避けたのだ
子供は残酷である
大人達は擬似正義をかざす
精神薄弱者が悪者になる
警察はいつでも大正義だった


そんな時代だった


その後
脇本はブツブツ、イライラしながら
街を歩いてるところは見かけるが
それ以外は見なくなった
公園に行かなくなったからだ
しかし、子供は僕らだけじゃない
僕らの下の代の子供達も
同じ事をしてきた
やはり、脇本は子供の好奇心の塊だった


少し成長してから
たまに街で脇本を見かけると
前に比べて痩せていた
相変わらずブツブツ言いながら
それは、本当に
弱そうな、幽霊のような
そこからは、あまり狂気を感じなかった
僕らは僕らの成長とともに
興味も世界観も変わっていった
そんな中、日々弱っていく脇本に
僕らは何にも思わなかった


僕らが中学生になり
思春期を経験し、少しずつ大人になっていく頃
脇本は、ひっそりと消えた
亡くなったわけではなく
引っ越したらしい
らしい、と言うのは
それが明確ではないからだ
大人達が噂をしていた
引っ越したのだと
その時も、別に何も思わなかった


今になれば
脇本を茶化していた事は許されるわけではない
ただ、精神薄弱者を社会に受け入れない
そんな意識の集合体である街は
僕らを麻痺させていた
当時、そんなキチガイは
街の至る所にいたし
その中の一人であった脇本
子供が好むキャラクター性を持っていた
他にも違うキャラクターもいたし
脇本だけが特別なわけではないのだが
そこにはらんでいるのは
「若い女性の精神異常者」という
稀有な存在だったからではないかと思う
殆どのキャラクターが年を取った男性であるのに対し
脇本だけはそこが少し違う
年を取った男性のキチガイは
本当に怖かった
アイスピックを持ち歩いてる奴
いつも怒鳴り声をあげてる奴
そんな奴らが毎日街をふらついていた
居住者というよりも浮浪者のような
見た目は汚いし、言葉も汚い
しかし、脇本はそんな風貌ではなかった
普通の服を着て、家に住んでいる
ただ、いつからか厄介者になっていた
僕らは、立場が弱い者を虐めていた
そうだ。虐めていたんだ
子供の頃、そんな悲しい立場の事なんか
知らなかった


僕は
自分が虐められるまで
そんな気持ちは
全然わからなかった
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今年の終焉はりの言葉

私は、申年です。

年男でした。

今年は、災厄の年でした。

一月から、もう其の予兆は在りました。
四月には、拾三年勤めてた前職を

色色ありまして、退職しました。
其の後は、36歳(無職)に爲り、

フリーターとして職を轉轉としておりました。
其の間、私は懺悔をしなければいけない事をしました。

(此処では伏せます。)
漸く、拾月に爲り今の職に就きました。
忙殺の日々が続き、朽ち果ててもおかしくありませんでした。
然して、年末最後の最後で巨きな爆弾が私に投下されました。
とても殘念でした。

最後まで、災厄でした。

と、此処でお知らせです。
來年、1月13日

吉祥寺MANDA-LA2にて

仲良くさせて頂いてる

「マニアック京都」さんのサポートでギターを彈くことに爲りました。

また、此の日はカゲルの企画でして、

其のカゲルでも一曲ゲスト参加させて頂きます。
もしお時間が合へばお越しください。
其れをもちまして、

私、石井裕倫の音樂活動は無期限の活動休止に入ります。
次にいつやりたいかとか、全く決めてません。
然して、私がベースで参加してる

「ぽち」も、脱退します。
「コンテンポラリヰ圖」もやりません。
勿論、ソロもやりません。
色色惱みましたが、仕事との兼ね合いや、

私のモチベーションが保たれない事など

理由は澤山御座居ますが、

今のところ表立つた予定はありません。
澤山の方々と出逢へて、

私は倖せでした。
けど、しばしのお別れです。

今年は別れの年でした。

唯一、嬉しかつたのは

THE YELLOW MONKEYが再集結したことです。
途轍もなく嬉しかつた。
ライブは、三回も行けました。

(チケット当選は總て妹でした。感謝。)
私は、一度消へなければいけないと。

考へております。
其の方が好いと思ひます。

周りに迷惑もかけないので。。

死にはしませんが。
取敢えず、普通に仕事して飯食つて生きていきます。

今まで、私を応援して頂いた方、

私を支へて下さつた方、

仲良くしてくれた方。
皆様、本当にありがとうございました。
今年一年で、私と云ふ人間がどれだけダメなのかを知りました。
今後は、日々精進をし、

少しずつではありますが、

皆様に恩返し出來るやう

生きていきます。

それでは、皆様にとつて

2017年が幸多き年に爲りますやうに。
2016年12月30日
石井裕倫

約束を捨てた人たちが住んでる町

「難民」
檳榔を賣る、肌着姿の女たちが
車道まで出て金を乞ふてる光景は
まるで此処が底辺の樂園のやうな
雲の一番下のやうな…
光化学スモツグが辺りを彷徨い
腐つた硝子片が辺りに散らばり
電柱のスピーカーからはジョン・ケージの4:33が流れ
蝙蝠の翅音で占いをする老人が
高架下の陰氣な角で陣取り
爛れた犬の唾液のどぶ臭い匂いは
何の願いも込めずにアンクレツトを脛に巻いた
青い目の少女に纏わり附く
彼女は難民である
弟たちと乘つてきた舟が轉覆し
彼女だけが生き残つた
なけなしの金を占いに使い
此の先の生きる糧を其処に見出した

「檳榔子」
檳榔子(びんろうじ)を細く切つたもの、
あるいはすり潰したものを、
キンマの葉にくるみ、
少量の石灰と一緒に噛む
しばらく噛んでゐると、
アルカロイドを含む種子の成分と
石灰、唾液の混ざつた鮮やかな赫や
黄色い汁が口の中に溜まる
この赫い唾液は飲み込むと胃を痛める原因になるので
吐き出すのが一般的である
其の爲、道路上には赫い吐き出した跡がみられる
しばらくすると輕い興奮・酩酊感が得られるが、
煙草と同じやうに、慣れてしまふと感覚は鈍る
そして最後は、ガムのやうに
噛み殘つた繊維質を吐き出す
赫い点々が辺りに散らばるスラム
闇市の泥臭い匂いと
犬の屍骸の匂いと
下水道のヌメりとした匂いと
何の匂いか判らない匂いと…
混血が沢山住んでるスラムに充満する

「ハロー、グツドナイ。」
ハロー、グツドナイ。
今日も軒燈を消さうか
ハロー、グツドナイ。
君の聲は遙か彼方
間違つた答えに溺れ
羸れ、震え、離れ、閉じて
重ね、變へて、傳え、流れ、
怯え、願え、逃れ、染まれ、、、
狂つた町から逃げてきたの!
あなたを追つて逃げてきたの!
でも、何故あなたはそんな
青い月が茶色いクレヨンに沈んだみたいな顔をしてゐるの?
珈琲も醒めてしまつたし
何処行くアテもないから
其処の角の店で買つたパンを食べて
昔、ピアノを彈いてた事を思ひ出すわ
あなたは、明日にでも
病院に行つたほうが好いわ
其処で、笑顔に爲れる藥を塗つてもらうといいわ
其の裡、またあなたのギタアが聽きたいから
早く歸つて來てよね
わたし、此の色褪せた室で
待つてゐますから
待つてゐますから…
ハロー、グツドナイ。

「車輪」
マグロ拾いを生業とする少年
彼は、年間無料切符を携えて
今日も電車に乘り込む
彼の目に写る、ドス黑い赫色は
彼の腦神経を麻痺させてゐた
臓物は、其の辺の砂利に等しく
眼球は、其の辺の硝子片に等しく
ネクタイやスーツは、
其の辺のボロ雑巾に等しい
始めた頃は、怖くて何も出來なかつたが
一箇月もすると、手袋を嵌めて
散り散りに爲つた四肢を掴めるやうに爲つた
彼は、完全に亡霊に取り憑かれたのだ
彼の室の隅には塩が盛られ
お札が置かれ
線香が焚かれてゐる
室の中は整理されてゐて、
無駄な物が一切ない
タンスには、黑を基調とした
暗い色の服しかなく
(此れと言つて、明るい色の服を着る必要もないのだ)
世界の情報はラヂヲで充分だし
幼少期に母が死んでからは、
孤獨なんてもんは忘れてしまつたし
養護施設で一緒だつた
二つ歳上の知り合いから
今の仕事を紹介してもらい
毎日を淡々と過ごしてゐる
(同時期に、×××も教へてくれた。)
人から見れば「特殊」なのかもしれないが
彼にとつてみたら、其れが當たり前であり、
其れが世界の總てなのである
毎日、何処かで起きる殘念な終焉り
彼は今日も、車輪の傍でマグロを拾つてゐる

約束を捨てた人たちが住んでる町
其処に在るのは愛でも理由でもなく
ただ刻々と過ぎ行く日々の中で
命を減らし酸素を吐き出し
いつか空に架かるであらう虹を
其の日が來る迄待ち續けるだけの
退屈なリアルと其の線上に在る
蟻が落としたほんの少しの砂糖を
拾う悦びだけが赦された町

私たちも、いつか住むであらう町。。。

本日は命日

母方のおぢいさんの命日です。

で、過去にmixiに書いた日記を、
ブログに再掲したいと思ひます。


昨年(2007年)の六月に他界した、母方の祖父の『合同慰霊祭』に参列した。

祖父は生前から「献体」を望んでゐたため、病院で亡くなつてからすぐに
解剖実習の行われる大学病院へと向かつた。

其れから約一年と三ヶ月、実習も終わり、遺骨となつてようやく遺族の元へ戻つてくるのだ。
然して、同じやうに「献体」を望んだ故人(望んだご家族)の居るご遺族達と供に
今回の『合同慰霊祭』に参列したわけである。

然し乍、参列するにあたつて俺は、とんでもなく場違いな気持を連れて行つてしまつたのだ。


「おぢいちやんが帰つて来る!」
程度の気持で参列したのだけれど、、、
勿論、所謂『喪服』に着替え、厳かな雰囲気で執り行われる慰霊祭に際しては
厳かな気持で其れに臨んだのだが、

何といふか、そこまで気負ひせず・・・
どちらかといふと和やかな面持ちで開式を待つていたのだ。
其処まで「献体」や『合同慰霊祭』の知識を持ち合わせもせず・・

開式から、黙祷・・学長の言葉・・感謝状贈呈・・献花・・
と、滞りなく慰霊祭は進んでいつた。

然して、最後に執行役の挨拶やら、臨床医の挨拶やらがあつた。
中に、○○病院の看護部長の挨拶が始まつた。
其処で、先にも述べた「俺の場違いな気持」を痛感させられるのである。


其の部長の挨拶は、以前担当してゐたあるご夫婦の出産の話だつた。

出産後間もなく、生まれてきた娘さんが亡くなられて
看護部の皆さんも、然して勿論ご夫婦もシヨツクを受けておられた。

だが、其のご夫婦は、

『娘を献体に出す』コトを望んだのだ。

今後、このやうな悲しい思ひをする方が一人でもなくなるよう、
医学の発展に貢献したいといふモノだつた。

其れを、時折涙で声を詰まらせながら、看護部長は切々と言葉にしてゐつた。


其処で、俺の「献体」に関する知識の薄弱さ、
『合同慰霊祭』に臨む姿勢の軽薄さを、悉く痛感させられたのだ。

つまりは、この慰霊祭に参列してゐるご遺族の方々は、
皆、和やかな気持ではないといふ事。
皆が天寿を全うした故人だけではないといふ事。
若くして亡くなられた方、事件・事故に巻き込まれ亡くなられた方など
様々な経緯や思ひがあつての「献体」、然して『合同慰霊祭』なのだといふ事。


自分が何ともぞんざいな態度で参列したことか・・・
自分の物差でしか物事の定義を決められない不甲斐無さ・・・


この歳になつて(なつたからこそ)、もつと色々な事を学んで、
考え、理解し、行動しないといけない
と、痛感させられた。


昨日の気持である。

マニアック京都史学史

遠い昔、
ニホンという國で戦争がありました。
10年以上も続きました。
ニホンは、物資不足を植民地支配で補い
戦力を、徴兵制度で補いました。
ニホンは、アメリカとフランスとイギリスという國と戦っていました。
圧倒的な戦力を武器にした連合國との戦いに、
精神も物資もギリギリになっていました。
空から多数の焼夷弾が雨のように降ってきて、
一般市民も多数犠牲になりました。
「果たして?この戦争は必要なのか?」
と、疑問に感じる人たちもいましたが、
軍の命令に背くわけにはいきません。
そのため、力のない女の人、子供、老人は次々に死んでいきました。
そして、大人ではなく、大学生が徴兵される
学徒動員も始まり、
戦争は悪化の一途をたどっていきました。
そして、その日は来ました。
場所はヒロシマというところ。
8月の暑い日、
戦時中であるが、街の人たちは
普段通りの生活をしていました。
そんな時、
急に空が光りました。
その瞬間、とんでもない爆発が起こり
街にいた人は爆風や熱風で、
一瞬にして死にました。
原爆が落とされたのです。
何十万人も死にました。
そんな中、ある一家は被災地より少し遠いところに住んでましたが、
もう街には住めなくなったので、引越しをすることになりました。
場所は比較的被災の少なかった京都。
その年、戦争が終わりました。

その家族の長女は、
すくすく成長し、中学生の時に
叔父からもらったアコースティックギターにハマり
高校になると、フォークソング部に入り
自作の曲などを作るようになる。
その後、バンドを作り、オリジナル楽曲の制作に取り組んでゆくようになりました。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

マニアック京都は
下京区周辺で路上ライブを行っていた。

1965年8月に自主制作シングル「トマト畑で」でデビュー
その後、12月にも自主制作シングル「終わらない一日」を発売。
翌年は路上ライブを年に200本行うなど、積極的な活動を行っていた。
しかし、その後1968年以降は、
全共闘運動など、ニホン各地でデモや学生運動が活発化し、
メンバーも活動家になるものや思想家になるものが出てきたため、活動休止を余儀なくされた。

学生運動が沈静化し、世間では四畳半フォークが流行りだした頃、
マニアック京都はメンバーチェンジをし、再始動する。
1973年当時、出来たばかりの「京都 拾得」に月一で出演し始める。
その年の9月にURCに加入し、
3枚目のシングル「アフリカ象」をリリース。
12月には早くも4枚目のシングル「神様の夏休み」をリリース。
ライブ活動も頻繁に行い、動員数も増えていった。
この頃が絶頂期といえよう。

その後は、メンバーチェンジを繰り返しながら、マイペースな活動に移る。

ベルウッドレコードからの唯一のLPである5枚目のシングル「水たまり」をリリース。
その後はフリーになり、
自主レーベル「マニアックレコード」を設立。

1979年3月には、レーベル初となるシングル
「ピアニコ」をリリース。
わずか500枚という少ロットの制作であったが、発売3日で完売し、現在は廃盤となっている。
※この曲は、元々戦前からの童謡だったものを、マニアック京都なりにアレンジし、戦争色を消しているとも言われている。
また、差別的な内容の歌詞だったため、
それをメンバーが嫌がり
その用語の部分を「ピアニコ」という造語に変えた。という説もある。

彼女らはニューフォークなどと呼ばれていたが、メンバーたちはそれに共感は出来なかった。
「自分たちは、唯一有無の存在」と自負しており、ジャンルレスをアピールしていた。

6月にシングル「名なしの子守歌」
7月にシングル「飛行船」
8月にシングル「ケメケソ」
を連続リリース。
ファンの間では、この連続リリースを
「三ヶ月大戦」と呼ばれている。
理由としては、三曲とも戦争を彷彿とさせる作品が続いたからだ。
名なしの子守歌は、戦争当時の人民の気持ちを歌っているのではないか?
飛行船は、ヒロシマ原爆の事を歌っているのではないか?
ケメケソは、戦後に流行った歌をパロディーにして歌っているのではないか?
としている。
歌っているのではないか?と記したのは、
彼女ら(マニアック京都)の歌の内容については、謎が多く、
また本人たちも「特に意味はない」と語っているからである。
この、所謂「三ヶ月大戦」は、その難解な歌詞と戦争を彷彿とさせる内容から都市伝説化し、
「反戦のマニ京」と呼ばれた時期もあったという。
人々の喪失感を歌ったこの三曲だけは、
他の作品と比べると独特な仕上がりになっている。

そして、「ケメケソ」を以って、マニアック京都は無期限の活動休止に入る。
理由は「修行がしたい」とのことだった。
折しも、その当時のニホンでは、フォークやGSといった類の音楽が衰退していく中、
アイドルや歌謡曲、パンクやニューウェーブなどが出てきた頃である。

そして、1989年
当時はバンドブーム真っ只中。
そんな中、突如として再びマニアック京都が現れる。
特に大々的な告知もなく、
吉祥寺MANDA-LA2にてライブを行い
MCで新作を出すことを発表。

その年の9月にいぬん堂から
シングル「名前をつけてくれc/w街燈」をリリース。
しかし、リリースして間もなく
マニアック京都は、再び活動を休止。

のちに、この当時のことをメンバーは
「特に意味はない。なんとなくやろうかって。」と話したことが、ある音楽雑誌のすみに掲載していた。

翌年1990年3月に、過去のLPシングルと未発表音源をリマスターした初アルバム
「マニアック京都旅行」をリリース。
(未発表ボーナストラックは、エスカレーター、かえるのうた、ラスベガス、ピアニコ(初期歌詞違いバージョン)
※これも、すでに廃盤

その後は、メンバーチェンジをしながら
不定期に活動や休止を繰り返し、今日に至る。

私としては、今年あたりに新作のリリースをしていただきたいと思ってるが、
マニアック京都のことだから、いつになることやら。
首を長くして待つことにしよう。


1994年 石井裕倫 記

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